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ほほえみ

涼格朱銀  

 わたしの部屋に彼がきたときのことはおぼえている。おきゃくさんがくるなんてことはなかったから、それはとてもおおきなできごとだった。わたしは部屋をそうじして、きちんとして彼をむかえた。
 赤いリボンでくるまれた白いはこのなかにはいって、彼はやってきた。彼は笑顔をたやすことなく、せなかをかがめるようにしてはこのなかにいた。まんまるのひとみをおおきくあけて、はこのかべをじっとみつめていた。
 彼ははこのなかがすきなようだった。そこにおしりをつけて、足をのばしてせなかをもたれさせて、じっとはこのなかにすわっていた。わたしが声をかけても、いっしょうけんめいまっすぐをみたままずっとすわっていた。いまははこのふたはあいているからいいけれど、さっきまではまっくらななかでこうしていたのだろう。こんなくらくてせまいところのどこがいいのだろうかと思ったけれど、とにかく彼は笑ったままじっとしていた。
 わたしははこのなかから出してあげて、かわりにわたしの部屋のじゅうたんの上にすわらせた。だいすきなところから出されて、おこってるかなと思って顔をのぞきこんだら、彼のほうはそんなことはぜんぜん気にしていなかったようだった。にこにことわたしを見つめかえしていた。
 彼のはだはまっ白だった。はこから出してあげたときにはだにさわったけれど、つるつるして、すこしざらざらして、ひんやりとしていた。ずっとくらいはこのなかにいたから、からだがひえているのかもしれない。さわりごこちのいい彼にさわりたかったのもあったけれど、わたしは彼のうでをとってさすってあげた。そうすると彼はうれしそうな顔をしてくれるのだった。
 彼はごきげんな顔でいるのだけれど、はなしかけてはくれなかった。だからすこしこまってしまった。こうしてむかいあってはなすといっても、あらためてなにをはなしたらいいのかがよくわからなかった。といっても、彼とははじめて会ったのだけれど。
 彼はずっとわたしをみつめて、すわりこんでいた。うでもそうだったけれど彼の足はふわふわしていて、からだをささえることができないらしかった。いくつもえだわかれしているわたしのものよりずっときれいだったけれど、じっさいはふべんなんじゃないかと思えた。けれどあるく気もないようなのでたぶんそれでいいのだろう。ずっといっしんにわたしの部屋のかべばかりみつめている彼に、わたしはどうこえをかけようかとなやんだ。まず、かたに手をそえてわたしのほうをむかせて、まずわたしのことをはなしてきかせることにした。
 わたしは彼にいろんなことをはなした。やってみるとなやむよりはかんたんだった。いやだったことも、たのしかったことも、はずかしくて言えないようなこともみんなはなしてきかせた。わたしはそうしてわたしのことをわかってもらおうとした。そうしたらはじめて会ったというこわばりもなくなっていくんじゃないかと思った。わたしがかおを赤くして、とぎれとぎれになりながらはなしをしていても、彼はちゃんときいていてくれた。いやなかおもしないで、しんけんにきいてくれた。だからがんばって思い出して、はなした。なるべくわかりやすいようにことばをかんがえて、ともだちのことはあだ名でよばないように気をつけた。とぎれとぎれになってしまうわたしのはなしを、彼はずっときいてくれた。
 わたしは彼のことがわかりたかったから、わたしのことをはなした。すきな色のこと、すきな場所のこと。わたしはじぶんのいろいろなことをはなした。けれど彼のことはわからなかった。彼はわたしのはなしをきいてくれたけれど、はなしかけてくれることはなかった。ちょっとくすんでよごれているじゅうたんのうえに足をなげだして、笑顔でいるだけだった。わたしは彼のことも聞きたいというのだけれど、そういうときの彼はとぼけたように笑みをうかべるのだった。悪さをして、かくしている子供のようなかおなので、なんだかわたしがおこりんぼうなように感じて、またほおがあつくなってしまった。
 けれど、なぜ彼ははなしてくれないのだろうか。もしかしたら、はなすことがないんじゃないかと思えてきた。ずっとはこのなかにいて、そとにでたことがないんじゃないだろうか。彼は立とうとしないし、あるこうともしない。だからはなすことがない。はなさない。それならいっしょにそとにあそびにいけばいいのだろうか。けれど彼はからだぜんたいでそれをこばんでいる。むかしなにかひどいことをされて、そとがきらいになったのかもしれないし、ただおっくうなだけかもしれない。けれどそういうこともわからない。わからないけれど、彼がそとにでたくないことだけはなんとなくわかっていた。せめてわたしがけいけんしたことだけははなしてあげたらいいのかもしれない。だからわたしはいろいろなことをはなして聞かせた。
 けれど、やっぱり彼のことはわからなかった。わたしはいろいろはなしたのに、それでもわたしは彼のことがわからないままだった。彼をみているといろいろなぎもんがうかんでくる。なんでかみの毛が太くてすくないのか。なんでまんまるの目をしているのか。なんで手がまんまるいのか。なんで立とうとしないのか。なんでずっと笑顔でいられるのか。だからわたしはじぶんのことをはなしながら、あいだになんども聞いた。けれどいつもそういうときだけ彼はきいていなかったふりをして、すまして笑うのだった。すこしさびしげで、けれどからかうような顔だった。からかっているのか、さびしいのか、ぜんぜんそんなことじゃないのか、わたしにはわからなかった。そういうこともわからない。だからわたしはじぶんのことをはなした。彼はすましたような、からかうような、ためすような、さびしそうな、うれしそうな目をする。視線のいみがわからなかった。そういうこともわからなかった。わからないことのほうがおおかった。わからないことしかなかった。
 わたしは、もしかしたら彼がとつぜん、なにかのまちがいでぽろっと口をすべらせるんじゃないかと思って、じっとそれをまっていた。じぶんのことをはなしながら、彼のくちもとばかりをみていた。ずっととじられている彼の口は、わたしのはなしにすこしずつ笑みをかえてはいたけれど、けっきょく口がひらくこともなかった。いつもおなじ、笑っていた。そしていちどもひらかなかった。彼はとてもまっすぐだった。いつも笑ってくれていた。わたしはいやな顔をしていた。彼の口ばかりみて、ずっとはなしてくれるのをまっていた。そうしてわたしがはなしていた。
 わたしの口もとじてしまった。はなすことがなくなったからだった。わたしはもうはなすことをつくれなかった。だからはなせなくなってしまった。わたしはじっと口をみていた。そして、ずっととじられている口に、わたしも口をとじていた。けれどわたしは笑ってはいなかった。なかよくしたそうな、けれどもそれをかくすような顔をしているにちがいなかった。けれど彼は笑顔だった。なんのいつわりもない、ゆたかな笑顔だった。彼の笑顔はすなおだった。わたしをあんしんさせた。うれしくさせてくれた。だからわたしははなしていたのだけれど、いまはもうはなすことがなくなってしまっていた。それでも彼は笑ってくれていた。でも、彼にだってはなしてほしかった。ほんとうになにもはなすことがないのだろうか。なにもなくても、わたしにはなしてほしかった。はなしたくないことなのだろうか。わからないけれど、彼はいつも笑顔なのはわかっていた。いつでも笑ってくれていた。からかっているような笑顔。けれど、ほんとうにからかっているのだろうか。はなしたくないのだろうか。はなせないのだろうか。わたしとはなすのがいやなのだろうか。それをはなすのもいやなのだろうか。わたしにはわからなかった。けれど彼は笑っていた。わたしがきらいなのだろうか。それならなぜ笑うのかがわからない。わたしのはなしていることがわからないのだろうか。けれど彼はほんとうにいろいろな笑顔でわたしにこたえてくれていた。彼はわたしをみていた。あるけない、立てない、はなせない、けれど笑っている。なんなんだろう。よくわからない。それすらもわからない。なぜわからないんだろう。たぶん彼がはなさないからなんだろう。はなしてくれたらいいのに。はなしてくれたらどうなるのだろう。わからない。けれどはなさないからやっぱりわからない。なんで笑っているのかも。なぜはなさないもわからない。どうしたらはなしてくれるのだろう。どうしたら彼のことがわかるんだろう。
 わたしの手が彼の手をとった。そしてゆっくりとひっぱり、おした。くびをゆらゆらさせておしりをばたつかせ、彼はゆられた。手をはなしたらあおむけにたおれて、それでも笑っていた。おきあがらせて、ほおをぽんぽんとやってみた。さわり心地のいいはだが、かるくしずんで、もとにもどる。わたしの指におさえられるたび、彼は困ったように顔をゆがませながらも、それでも笑顔だった。彼の少ない髪の毛を何本かつかんで、ちょっときつめにひっぱってみた。彼の顔もひっぱられ、たてながの笑顔になった。静電気がはじける音がして、彼はまえのめりになって、またさっきと同じようにすわりこんだ。指を折ってかぞえられるようになった髪の毛を知っているのか、それでもなにもはなしてくれないし、笑顔だった。なんで笑っていられるのか、わたしにはわからなくなってきていた。わからないままだった。最初からわからなかった。だいたいわたしのつまらないはなしをきいて、いつまでもにこにこしていることがわからなかった。そしてずっとわからないのかもしれない。そんなことは最初からわかっていたのかもしれない。わたしも、彼も。
 小さく、はかない音が部屋を一瞬だけ満たした。ベッドのかどにあのまんまるで大きい後頭部をぶつけて、横に転がりながら戻ってくる。その頭を身体にくっつけているところを、五つに分かれた根のような指がそれぞれつかみあげた。そしてそのまま腕がいきおいよく振られた。軽い音がして、かべを跳ねてまた戻ってくる。こんどはわたしに瞳を向けて、仰向きに寝転がっていた。
 笑っていた。
 机に飛びついて、並べてあったものに平手をやった。長細いものがたくさん机に散らばって、そのひとつをつかみ、彼に飛び戻った。それは深く突き立った。引き抜き、突き立てる。もうひとつ、突き立てる。汚いじゅうたん。いくつもの繊毛がついていて、わたしはいつもこんな上にいた。繊毛の先はみんな灰色になっていた。染色されたじゅうたん。そしてわたしの手の中にあるものは、じゅうたんをつき通っていた。その先の、硬い感触があった。じゅうたんとわたしの手の間には彼がいた。親指が、握っている鉄の板といっしょに彼の中にめりこんでいた。
 額が割れていた。右足は抉られ、皮膚がめくれていた。首筋には彼の首の断面が見えた。淡い黄色の、いくつもの細胞壁に区切られた脂肪のかたまりがいくつも彼の中からはみ出していた。瞳は見開いたままだった。どこを見ているのかわからない、茶色の瞳。そして、彼は笑っていた。いつもと変わらず、彼はいた。微笑をたたえて、そこにいた。
 鉄の板が動き、脇腹から抜け出ていった。柔らかい脂肪の弾けるかわいい感触があった。
 ……笑っている。
 胴が引っ張られた。はかなく低い断末魔のあとに、彼の首がちぎれた。
 ……笑っている。
 わからない。わからなかった。わたしが好きだからでもない、わたしの話が楽しいからでもない、わたしが困るのを見て楽しんでいるわけでもない、笑っているのかもわからない、わたしはずっとわからない……!

 ……部屋には死臭が漂っていた。雑菌を拒むような几帳面な臭いがわたしのなかに入り込み、病的に喉や鼻や気管支を掃除し続けていた。黄色いかたまりが散らばっていた。わたしの机に、わたしのじゅうたんに、わたしのベッドに、わたしの服に。わたしの手の中にもあった。それは黄色くなかった。少し赤みを帯びて、水気を含んでいた。液体はそこからゆっくりと筋をつくり、少しずつ床にこぼれていた。手の中の黄色くない黄色いものは少しも腐ろうとしないで、ずっと手の中にあった。軽くせき込んだ。
 かすかに鼓動のような音が聞こえて、部屋の外からだった。だんだんと大きくなる鼓動は、速いテンポで近づいてきた。それが一度途絶えて、確認するように壁が二、三度鳴った。
 部屋の一角から光が覗いた。そしてすぐに遮られた。いびつな、背の高い、細い身体をしたものがわたしの部屋を黒く染めていた。
 部屋をひととおり眺め回して、それからものすごい音を立てた。
「なんでこんなことをしたのよ!」
 再び、利き手に力が入った。わたしはずっとはなしかけてくるそれに視線をやった。薄い笑みを浮かべて。


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