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笑う門には

涼格朱銀  

 冬でもないのに、夕方がとても薄暗く感じた。
 大したことではないのだ。ただちょっと、先生といざこざがあっただけだ。
 明日はその先生の授業がある。なんとなく気が重かった。授業で異常に当てられたり、無視されたりとか、そんなことはしないだろう。だが、先生と顔を合わせること自体が嫌だった。
 学校を休んでやろうか。
 そんなことを考えている内にも、足は帰り道を歩いていた。道は人通りの多いところへと向かっている。
 不意に笑い声が聞こえた。その時ようやく、自分がうつむいて歩いている事に気づいた。あたりを見渡すと、他の学校の生徒だろう、女子数人が、道ばたで突っ立って、なにやら喋って笑っている。
 よくある風景だが、今日はなんだかいやに耳についた。そんなことが気になり出すと、なにもかもがうっとうしくなってくる。
 車の鳴らすエンジンの音や、野菜の前でうるさいぐらいに大声をあげている店員。みんな、自分を笑っているような気がした。
 腹が立ったが、しょうがない。足を早めて帰ることにする。
 しかしその時、何かおかしいような気がした。
 すれ違った男が、なにか笑いをこらえているようだった。考えすぎだろうと気にしなかったが、やがて少し離れてから、その男はたまらないという風に小さく声を出して笑ったのである。その声は小さなものであったが、なぜかはっきりと聞こえる。
 なにがおかしいんだろうか。そう思っていたら、次は前から、女の笑い声がする。今度はおばさんだ。笑いをこらえるため、右手を口に当てていたが、声はそこからあからさまに漏れてくる。
 なんだかいらいらしてきた。なにがそんなにおかしいんだろうか。今自転車で追い抜いていった子供は全然笑ってなかったのに。
 自分だけが取り残されたような気分で、家に帰った。手を洗いに行くと、そこには母がいた。
「ただいま」
 しかし母は言葉を返すでもなく、こちらを見るなり笑い出したのだ。
「なにがおかしいんだよ」
 不機嫌ついでに荒々しく言ってみたが、答えない。代わりに笑いは大きくなる。
「なんだよ。人の顔みて笑いやがって」
 そう捨て台詞を残して、二階にある自分の部屋に駆け込むようにして戻った。
 なんなんだ。みんな俺の顔見て笑いやがって。一応鏡に自分の顔を映してみたが、なんということはない。笑えるような要素はなにひとつなかった。
 なんだか、自分だけが不幸なんじゃないかという気がしてきた。その不幸を、みんなして笑ってるんじゃないだろうか。
 外から笑い声がする。近所のやつらが家の前を通っているらしい。なにもかもが、俺を笑っている。
「なんなんだよ、なにがおかしいんだ!」
 思わずわめいたが、聞こえなかったのかどうなのか。笑いは自分を中心に、どんどん膨れているような気がしてきた。もう、自分の部屋も安全じゃない。頼りなくあたりを見回すと、窓が目にとまった。
 逃げるような気持ちで窓へと駆け寄り、開く。美しい夕焼けに、街が染められている。自分はこんなに不幸なのに、だ。
 家の前を見下ろすと、もう誰もいない。
 飛び降りてやろうか。そう思ったが、首を振る。そんなことをしたら、みんなが喜ぶだけだ。
 そのとき、家の前をまた誰かが通ろうとしていた。セールスマンかなにか、そんなところだろう。
 どうせあいつも笑うだろうよ。半ばヤケ気味にそいつを睨む。
 しかし、彼は笑うどころか、こっちにも気づかない様子でやってきた。
 よく見ると、彼は笑うどころの雰囲気ではなかった。頭をやや地面に向け、思いに耽っているようであった。
 俺にはわかった。なぜなら、俺もそうだから。ようやく孤独な世界から、同志を見つけた気がした。
 安心感。それは心の中で、何かを作動させた。
 自然と顔がほころぶ。最初は低く、そしてついつい、今まで溜まっていた何かを吐き出すように、俺は笑った。
 気持ちのいい笑いであった。男はさすがに気付いたのか、こちらに顔を見上げる。予想通り、彼は深刻な表情をしている。
 それを見て、俺の笑いはどんどんと大きくなった。男の顔が、ますます不機嫌に歪んでいくにつれて。


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