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1−1.書き始める前に

[2014.6.28]改稿(文章の手直し)


1.文章の存在意義

 本レポートでは主に小説を書く上での技術を紹介しているわけだが、技術的なことを云々する前に、そもそも小説を含めた文章とは何のために存在しているか、という点について確認しておきたい。
 確認するまでもなく当たり前の話でありながら、意外と多くの人が忘れがちなことだが、文章とは誰かに「読まれるもの」だ、ということである。

 小説やレポートや日記、作文に至るまで、文章は読まれることを宿命づけられている。それは、文章を構成する「文字」が、誰かに何かを伝えるために作られたものであることに由来している。文章は、自分の頭の中にある「何か」を他者に共有しようという目的があって、はじめて存在意義を得る。誰の目にも触れない文章があったとしたら、それは存在しないも同然である。

 通常、小説を書く人の出発点も、誰かに自分の小説を読んで欲しいから書く。「誰か」というのは必ずしも自分以外の誰かではなく、「未来の自分」を読者と想定する場合もある。ともかく、他者のために書く。そういう気持ちから書き始めるものである。
 しかし、少し技術的なものを身につけ始めると、かなり多くの書き手が他者の視線を忘れ、ただ、よりよい文章を書くことを目的に技巧の限りを尽くしてモノを書こうとしてしまう。書くために書いてしまうのである。結果、目的を見失った技術は暴走し、気が付けば、技術的には高度だが、誰も読まない、読みたくないような魂の抜けた文章の死骸が転がっている、ということになる。

 これはなにも小説だけに起きる現象ではない。たとえばノートを取る時によく起きる。
 ノートを取る目的は、授業の要点を記録し、読み返して復習するためである。しかし、多くの人は目的を忘れ、ただ美しいレイアウトを追究したり、先生の板書を完全コピーすることに労力を費やす。その末にできあがるのは、カラフルな文字が乱立して何が重要かさっぱりわからないノートだったり、意味のわからない言葉が何の補足もなくそのまま書かれていて、いちいち資料を引き直さないと内容を理解できないノートだったりする。
 本来ノートとは、自分の使い勝手を重視して書くべきものである。自分が読めさえすれば殴り書きでもなんでもいい。先生の板書をすべて書き写す必要などなく、逆に、板書以外にも必要があればどんどん書き込むべきである。しかし、多くの人はノートを取っている内に目的を見失い、二度と読み返したくない、もしくは読み返しても役に立たないノートを作ってしまいがちである。

 本レポートでは、なるべく役に立ちそうな技術を提供しようとはしているが、技術とはあくまで道具に過ぎず、実際に使えるかどうか、役に立つかどうかは個人の好みや技量、目的などによって変わってくる。
 目的さえ見失わなければ、その技術が自分にとって不要か必要か、どう改良すれば使いやすくなるかは自ずと見えてくる。知識を単なる知識として詰め込まずに、生きた知識として扱うことができるのである。 


2.書き手の立場

 もうひとつ、書き手の重要な心構えとして、「書き手は作品ですべてを語るべきだ」というものがある。これは文章の書き手に限らず、クリエイターならば当然持っているべき心構えなのだが、身内で作品の見せ合いなどをしていると、けっこう忘れがちになってしまう。
 この心構えの意味は、大きく分けて二つある。

 ひとつは、基本的に読者は、作者自身がどういう人間か知らない。小説を書くのにどれだけ苦労したかも知らない。読者は、作者の生い立ちや作品を完成させるまでの経緯などを調査してから読むわけではないのである。
 読者と作者の接点は、あくまで「書かれた文章を読む」ことにのみある。そして読者は、ただ作品を読んで「どう思ったか」を評価するのみである。
 つまり、作者がどれだけ苦労して作品を書き上げたとしても、読者はその労力を評価に加味してはくれない。読んでつまらなければ「つまらない」の一言でばっさり切り捨てられる。読者は常に成果主義である。
 もしそれが不満で、その読者に「この作品を書き上げるのに10年の歳月がかかったんだ」などと苦労話を打ち明ける機会があったとしよう。しかし、それを聞いた読者は「10年もかかってこの程度のものしかできないのか。とんでもないヘタクソだな」と思うだけで、むしろ逆効果である。

 もうひとつは、読者は、作者が想定している知識、経験を持っているとは限らない、ということである。
 たとえば、作者はトカゲを食べて「うまい」と感じた経験があるとしよう。それで、ある料理の美味しさを表現するのに、「それはトカゲのような味がした」などと記述したとする。
 しかし、現代日本の読者の多くはトカゲを食べたことがないだろうから、この記述に込められた意味を理解できない。仮に食べたことがあっても、「まずい」と感じた読者には「なるほど、この料理はまずかったんだな」と、真逆の解釈をされてしまう場合もある。
 上記の例は極端なので、さすがに気付くだろうが、たとえば犬好きの人にとって「犬が嫌いな人もいる」ということや、文学畑の人が「夏目漱石を読んだことのない人がいる」ということについて思い至らないことはありがちである。
 作者は自分の経験や知識がどこまでなら読者と共有できるかを、探りながら書く必要がある。たとえば、犬好きの人を読者と想定して書いている文章なら、「読者は犬好きだ」という前提の元に書いてもいい。しかし、犬好きの人がミリタリマニアとは限らないから、「今日の晩ご飯はMREの9番(註)でした」などの記述は避けるべきである。
 言うまでもなく、作者と読者は別人である。「自分が知っているから他者も知っているだろう」と無邪気に信じて書くと、自分以外の人にはちっとも理解できない、独りよがりな文章になってしまう。


註:MREの9番
 MREとは、現在アメリカで使用されているレーション(戦闘糧食)のこと。缶詰ではなくレトルトパウチになっている。ワンパッケージに飲み物(粉末ドリンク)やらデザートまで全部入っていて携帯に便利。メインディッシュの内容によってナンバーが振られており、9番はビーフシチュー。
 要するに「今日の晩ご飯はビーフシチューでした」と素直に書けばいいものを、ミリタリ知識をひけらかしたいために余計な比喩表現を用いた悪文である。また、仮にMREを知っている読者がいたとしても、本当にレーションを食べたのか、普通のビーフシチューのことを言い換えただけなのかはっきりせず、独りよがりな文章であることに変わりない。
 こんな頭の悪い文章など書くわけがない、と思うかもしれないが、作者が気持ちよく文章を書くと、この手の悪文は想像以上に含まれる。決して他人事ではない。


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