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3−2.小説の文章技法

[2014.6.28]改稿


1.小説の文章

 1−2にも書いたが、小説の文章は「叙述」と呼ばれる。叙述とは、物事を述べることを意味する。つまり、何かの物事があり、それを伝えるために書かれるのが小説だ、というわけである。ただし小説はフィクションなので、伝える物事は架空のもの、となる。

 本来、物事を述べるだけなら、余計なことを述べる必要は無い。いつ、誰が、どこで、どうやって、なぜ、何をしたかを書けば事足りる。現に昔話の類いはそのようにできている。しかし小説は(特に近現代小説は)物事を述べるだけなら不要なはずの文章がごちゃごちゃと付属することになる。むしろ小説を小説たらしめているのはこの不要な文章であり、ただ事物を叙述すれば良い小説になるわけではないのが、小説というジャンルの屈折したところである。

 なぜ近現代小説はいらないことをごちゃごちゃ書くのか、という点については、説明するのが大変なので端折るが、かつての小説(物語)は、まず最初に語りたい神話や訓話、伝承などがあり、そこで登場する人物は、そうした物語を進めるために配置された駒に過ぎなかった。しかし、近代小説はむしろ登場人物の「個」にスポットが当たるようになり、登場人物達が「物語」に反逆するようになった。それで、物語には不要なことがごちゃごちゃと書かれるようになったわけである。
 その後、再び登場人物が「物語」の駒として扱われる小説が書かれたりもしているが、だからといって物語の推進にとって不要な文章が削られたわけではなく、むしろ語るべき「物語」すらも消滅してしまい、個を書くわけでも物語を書くわけでもないものが現代の小説であったりする。つまり現代小説は乱暴なことを言えば、叙述するものがないのに叙述するのである。とはいえ、こんなことは普通の書き手が考える必要は無い。単に物語を書くだけではつまらないので、話を盛り上げて面白くするためにいろいろ装飾するようになった、という程度に考えておいた方がいい。

 ここでは、小説の叙述の基本的な技術をいくつか紹介する。

2.会話文

 会話文とは、登場人物が喋った言葉をそのまま書き写した(かのように見せる)文である。
 喋り口調によって登場人物の性格や感情を表現したりすることができ、登場人物の個性を造形するのに最も手軽な文章であるといえる。
 登場人物が「喋る」という動作をし続けているために動的で華やかな部分で、わかりやすく面白味の出せる箇所でもある。映画で言うところのアクションシーンに近い役割を持っている。

 会話文は手軽に書けるので楽なものと思われがちだが、実際は書き手の技量が透けて見える部分でもある。というのは、会話文は登場人物が喋っている内容をそのまま書き写したものなので、誰が喋っているかによって文体を変えなければならないからである。たとえば非人称話者の三人称小説で3人の登場人物が喋るシーンを書く場合、合計4つの文体を書き分けなければならない。意外と高度な技を要求されるわけである。
 相当上手い書き手でもそんなに文体を書き分けることはできないので、実際は男言葉や女言葉、漢字の使用頻度、語尾などの小手先の技術で書き分けているかのように見せかけることになるのだが、下手な人はそもそも「書き分けなければならない」という意識すらなく、地の文も会話文も全部同じ文体で書いてしまう。結果、メリハリも個性もなく、単調でつまらない小説ができあがるわけである。
 実際できるかできないかは別として、会話文を書くときは文体を変えなければならない、という意識を持つことが、より魅力的な会話文を書けるようになるコツである。

 会話文を書く上で基本的な注意点としては、第一は、現実の喋り口調をそのまま丸写ししないこと。


「ぐす……ひっく。えー、と、ね。あのね、さっきね、ワンちゃん見たの。それでね、あのね、かわいそうだったからね、おうちにつれてかえりたかったの。だけどね、あのね、おかあさん、だめだって、ひっく、いうの」

 上の会話文は、現実世界で子供が喋りそうな口調を、できるだけ忠実に再現したものである。
 子供に限らず実際の会話では、「あのね」といった意味のない言葉を繰り返したり、前後の脈絡が整理されていなかったり、同じ内容が重複したりすることがよくある。しかし、それを小説の中で忠実に再現してしまうと、単にうっとうしいだけの駄文となってしまうのである。
 小説の会話文は、「子供が喋っているように見せかける」技術と同時に、「読者にわかりやすくする」配慮も必要なのである。


「あのね、さっきワンちゃんが捨てられてたの。だからおうちにつれて帰りたかったんだけど、おかあさん、だめだっていうの」

 現実世界では、泣いている子供がここまで整然と喋るとは考えがたい。しかし、文章という形で読んだ場合は、意外なほど自然に感じるだろう。

 第二は、誰が喋っているのかを区別できるようにすること。
 小説における「アクションシーン」でもある会話が全く無個性で、登場人物の誰が喋っているのかも区別できないようなものであったら、それだけで魅力半減になってしまう。三人以上の絡む会話文で、「〜と彼は言った」というような説明をいちいち付けなくても区別できるようにするのが理想である。
 個性の付け方の基本的な要素は、人称、語尾、方言、口癖など。この四つだけでも相当なバリエーションを持たせられるだろう。登場人物を造形するとき、こういった喋り口調の癖をリスト化しておくと便利。
 なお、この技術を巧みに使った小説には、夏目漱石の『坊ちゃん』がある。言葉遣いひとつで身分や出身地や性格を明確に色分けし、短い小説の中であれだけ多数の登場人物を出して、なお一人一人の印象がぼけない手腕はさすがである。うらなりという、喋らないことで個性を出していた登場人物がいたことも特筆すべきところ。

3.描写

 小説における「描写」とは、本来なら五感で捉えるべきものを表現する文章のことを指す。小説は文章によって伝えるメディアのため、何かを実際に見せたり、聴かせたり、嗅がせたりといったことはできない。なので「夕暮れの空が赤く染まって〜」などと、いろいろ書かなければならないわけである。

 初心者に小説の書き方を教えるときは、とにかく細かく描写することを薦める場合が多い。それは初心者は、物事をただ書けば、それがそのまま読者に伝わると、安易に考えていることがままあるからである。彼らは「悲しかった」と書けば悲しみが共有でき、「二時間過ぎた」と書けば二時間の時間の流れを感じられると思い込んでいる。しかし、そもそも五感というのは説明されて理解するような理性や論理の問題ではなく、感覚の問題なので、文章で説明されただけで簡単にそれを共有できるわけではない。文章表現を駆使して、なんとか読者の感性を揺さぶらなくてはならないわけである。

 しかし当然ながら、なんでもかんでも描写すればいいというものでもない。要するに描写とは、できれば見せたり聴かせたりしたいもの、そうすることによって与えられる心理や感性を作り出すために書かれるものなので、きちんと効果を狙って書かれなければならない。描写訓練などと称して、秋の空を延々と描写する練習が文芸サークルなどではよくなされるが、無目的に書かれる描写は無意味であり、そんな練習には意味が無い。その描写によって何がしたいかが重要である。
 たとえば、夕暮れの空を描写することによって時間を知らせたいだけなら「見上げると、空はもうすっかり赤く染まっていた」程度の文章で充分だし、その空の色から不吉なものを感じさせたいなどであれば、伏線なども絡めてそれなりの工夫をする必要があるわけである。

4.描写の副次効果

 描写は五感を文章によって代替させるものだと書いたが、他にもいくつかの効果を引き出すことができる。ここではそれらの基本的なものを紹介する。


1.捨てカット(時間を経過させる)
 何度も書くが、描写は、本来なら五感で感じるべきものを文章によって表現している。本来なら見たり、聴いたりすることで瞬間的に感じることのできるはずのものを文章を読ませることで擬似的に再現しているわけである。このことは副作用として、小説内の時間を遅くする効果がある。
 たとえば、ある人物の姿形を視覚で捉えるなら、それは瞬間的に終わる。しかし小説では、目の色がどうの、髪型はどうのと、いちいち書かなければならず、読まなければならない。つまり描写を読んでいる間、小説内の時間は止まってしまうか、極端に遅くなってしまうのである。この副作用を利用することで、小説では時間を操作することがしばしばある。その最も簡単な技が「捨てカット」である。

 たとえば、「この三十分は、彼にとっては非常に長いものに感じられた」と書いたとしても、この一文を読むのに一秒もかからないため、彼が感じた時間の長さを読者は実感できない。
 そういうとき、あえて饒舌でうっとうしい会話文や、様々な事物を描写した文章を何十行、何百行と挿入して、彼の時間感覚を擬似的に再現させる、というわけである。
 その他、事件と事件の間に、登場人物同士の他愛ない日常会話や食事シーンなどのストーリーと直接関係ないシーンを挟んだりするのも、捨てカットの部類に入る。
 あまりにも事件が連続して起きると、読者が疲れてしまったり、刺激に慣れて飽きてしまったりする。そんなときに「何も起きないシーン」を挿入して、休憩を促すわけである。

 意味のない描写なのだから簡単なのかと思いきや、実はこういう描写にこそ、作家の技量が問われてくるから面白い。
 いくら捨てカットといっても、それが面白くない文章だと、小説全体の印象を損ねてしまったり、最悪そこで読者が読むのをやめてしまったりする。しかし事件のある状況と違って、書くべきような面白い事は何もない。
 かつ、あまり刺激的に書いてしまうと、捨てカットを書く本来の意味を損ねる。休憩時間なのに高揚感があったりするのも本末転倒なのである。
 本来つまらないはずのものを、いかにして面白いものにするか。かつ、小説の本題を食い潰さないバランスで調整するか。捨てカットの巧拙は、そのまま作家としての巧拙になると言っても過言ではない。

 解決策の一案としては、人物や世界観などの余剰な設定を利用する、という手がある。
 たとえば、小説の本筋には全く影響しない部分で、主人公はにんじんが嫌いだ、などの他愛のないエピソードを挿入する。人は意味のない情報に異常な関心を示す傾向があり、どうでもいいエピソードをことのほか喜ぶ。ついでにそれを通じて登場人物に愛着を持ってくれたりするのだから、使わない手はない。
 ただし、そもそも人物描写がしっかりしていなければ、効果がないどころか逆に薄っぺらい人物像を描き出してしまい、非常に陳腐になるので気を付けること。特に初級者であると自覚する人は、逆にこういう描写は封印することをお勧めする。本筋をまともに書けるようになって初めて、意味のないエピソードもうまく描けるようになるのである。
 また、「本筋に影響しない」という点にも注意。捨てカットを書くために、プロットを根幹から揺るがすような重要な設定を加えてしまい、全体の構成がめちゃくちゃになって全部書き直し……という事態になっては意味がない。

 なお、逆に言うと、描写を細かくすればするほど小説のテンポは遅くなるため、時間経過を早くしたい、軽く読ませたい場面などでは、描写を控えるべきである。


2.重要度の区別(読者を注目させる)
 たとえば、棚に本がぎっしりと並んでいるとする。その中で主人公が、ふと、一冊の本に目を止める。紙質、痛み具合、背表紙の文字、厚さなどを細かく描写していく。そうすると読者は、その本が作品にとって重要な鍵となることを暗に期待する。たくさん本がある中で、その本だけ丹念に描写するのだから当然重要なものなのだろう、というわけである。

 このように描写には、その密度が高ければ高いほど、作品における重要度が高くなる(ように見える)という効果がある。書き手はこの効果を念頭に置いて、作品における事物の重要度と描写の密度のバランスを調整する必要がある。
 つまり、基本的には主役級の登場人物は丹念に描写され、すれ違うだけの通行人などは「通行人」の一言で片付けるのが小説の秩序なのである。

 これを応用すると、伏線を張ったり、もしくはミステリー小説の常套手段である、重要な事物を隠蔽する技術になる。
 前者は、単なる通行人なの特定の一人にだけ「すれ違う瞬間、こちらを見て笑っているような気がした」などと描写を加えたとする。そうすると読者は、その重要度の序列を乱している通行人に対して違和感を覚えるわけである。これが伏線の元となる。
 後者は、たとえばトリックを解く重要な鍵として「椅子の位置がずれている」という事象があったとする。しかしそれを花瓶やテーブルなど、他のあまり重要でない事物と同じ描写密度で描くと、読者はどれが本命であるかの区別が付かないのである。


3.心情・性格の表現
 同じ空を描写するにしても、「雲ひとつない、突き抜けるような青い空」と書くのと、「光と熱を容赦なく降り注いでくる空」と書くのでは、その印象が異なってくる。後者は、地の文の主体となる人物(一人称でいう「私」)が日差しを毛嫌いしている様子が窺える。
 また、「一台の車が走り去った」と書くのと「二代目前期型のセルシオが走り去った」と書くのとでは、主体人物の車に対する関心の差が異なって見える。

 こうして描写の表現に偏向を加えることで、地の文の主体人物の心情や性格を表現するのも描写の役割である。人物の個性を演出するてっとり早い手段は会話文の味付けだが、描写表現の差でそれができるようになると、さらに幅の広い人物造形を行うことができるようになる。

 逆に言うと、会話文でいくら個性を付けても、地の文がそれと調和していなければ、ずいぶんみっともない小説になってしまう。
 たとえば、上品で可憐で表裏がなく、誰にでも親しみを込めて接することのできる少女を描きたいとする。それで会話文では「あ、おばあさん。元気にしてました?」などと書く。しかし地の文で「ずいぶん老け顔の醜いオバサンが、私のところへズカズカと歩み寄ってきた」などと書いてしまうと、猫を被った二面性のある人物に見えるわけである。

 キャラクターに応じて地の文を書き分けることができない書き手は、素人だけでなくプロの中にも相当いる。それはおそらく、会話文は登場人物のもので、地の文は作者のものだという間違った認識から生じているように思える。
 三人称小説の誰にも還元されない地の文で作者の表現を披露するのならともかく(いずれ露骨に作者が小説内に登場するのは、みっともいいものではないが)、一人称小説の地の文は、基本的に全て「私」という話者に還元されるものである。話者と作者は別人なのだから、当然その地の文は、話者の性格や心情に合わせた書き方にするべきである。


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