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3−3.時間に現実味を持たせる

[2012.7.24]改稿


 まず考えなくてはならないのは、私たちがどうやって小説の中に時間の経過を感じているか、ということである。
 小説の中で時間を感じ取るための情報は主にふたつ。ひとつは実際にその小説の中の文を読んだ時間。もうひとつは「それから数日が過ぎた」などという小説内の情報からである。
 つまり、小説の中で時間を操る場合、この両者の相互関係を用いるわけである。

 現実の時間は、淡々と進んでいくのみ。対する虚構内の時間は早くなったり遅くなったり停止したり逆行したりと、自由自在に変化できる。
 しかし、そんなむちゃくちゃな小説内の時間が、なぜかリアルに感じられた経験はないだろうか?

 ここではそんな、虚構内の時間に擬似的な重みを付加し、リアルに見せる技術を紹介していく。

1.小説時間の基本的な知識

 それではまず、原理的な部分からいこう。

 小説内の時間は、基本的に、描写をすればするほど遅くなり、会話文や説明文(「説明文」の定義は文脈によって異なるが、ここでは「それから10年が過ぎた」など、細かい描写を省いた簡略な説明に留めた表現法を指すこととする)を書くと早くなる。
 描写をすると遅くなる理由は、視覚や聴覚を使えば一瞬で得られる情報を、小説の描写は一本の文章として順次書いていくからである。
 たとえば、ある人物がどんな顔をしているかは、実際の人間や絵などなら、見たら一瞬でわかる。しかし文章では、「髪は肩の辺りで切りそろえており、黒い瞳はうるんでいた。鼻は……」などと、いちいち書かないといけない。その分、時間の経過が遅くなるわけである。
 説明文によって時間が早まるのは説明するまでもないだろうが、会話文によって早くなる理由は、文章を音読してみるとわかる。「大した男だよ、あの兄ちゃんは」などという会話文を、音読する場合は現実の時間経過と同じだが、黙読すれば音読より早く読める。現代の小説は、音読されることはあまりないので、結果的に小説内の時間は早くなるわけである。

(補足:その他の小技としては、文章を短く、韻を踏むなどしてリズム感を出すと、読者の体感として文章を読むテンポが良くなり、なんとなく時間経過が早いように感じられる。長々と描写を書き連ねるときの重苦しさを消すときにも役に立つテクニックなので、詩や落語、歌詞などを参考に、マスターしておいて損はない)

 それを踏まえて、小説内の時間をリアルに感じさせる手段は、大きく分けて二種類ある。

 ひとつは、読むことによる疲労感や充実感を誘い、時間感覚を麻痺させる方法。
 現実に流れている時間は常に一定なのだが、人間はしばしばその時間に対する感覚が狂うときがある。たとえば、お湯を注いでラーメンができるのを待つ3分は長いが、大好きなアニメを観る30分は短く感じる、などである。
 小説では、こういった感覚の狂いを、文章を読むことによって起こる疲労感、充実感を感じさせることによって誘発し、実際にはあり得ない時間経過をリアルに感じさせる手段を使う。

 もうひとつは、時間の経過に関する情報を読者に与えない(もしくは極端に少なくしたり、多くする)ことで、時間感覚を狂わせる方法である。
 これは読者に提供する情報を操作し、読者の頭を混乱させることによって引き起こす。
 主に未来や過去へ行き来する、現実にはあり得ない時間進行をリアルに感じさせるために用いるが、単純に「読みづらい、理解できない」文章を書くと、単なる誰も読んでくれない駄作と化してしまうため、高度な文章技術が必要になる手法である。

 それでは具体的にどういう技術でもって、このような操作を行うかを解説していこう。

2.捨てカットの手法

 まずは最も単純な手法である「捨てカット」。
 要は、話の筋に関係のない挿話を入れていくことで、読者がそれを消費するのにかかる時間を稼ぐという、単純なものである。
 また、捨てカットの部分は真面目に読まなくてもいいわけで、読者にとっても息抜きになる、というメリットもある。

 捨てカットの種類は様々で、たとえば風景描写や観光案内のような地の文を長々と入れることもあれば、食事や雑談シーンを描いてみたりすることもある。
 面白い形態のものだと、メルヴィルの『白鯨』のように、話と話の間に、鯨に関する文献の紹介が羅列されるものもある。
 あれが捨てカットと言えるかどうかは、異論もあるだろうが。

 設定魔(設定病)の人は、こういう場面にこそ、今まで蓄積した設定などをフルに活用し、色鮮やかな捨てカットを書いてみるのもいいかもしれない。

 使い方の例としては「しばらく歩いていると、やがて目的の場所が見えてきた」のような一文の代わりに、 


 この街も変わったものだ。子供の頃は、この辺は空き地で……(略)
 
 ……などと思いを巡らしている内に、目的の場所へ着いた。

 などと、回想シーンを挿入することで「しばらくして」の時間分を稼いだりする。

3.密度のメリハリ

 次なる技術は、読むのに感じる疲労感、充実感の差によって時間差を作り出す手法。これも2と同じで、小説における時間経過をリアルに感じさせる手法だが、こちらの方が効果としては大きい。

 簡単な話、思いっきりシリアスで難しい文章を読んだ後に軽い話を読めば、単に軽い話を読むときよりも、体感する時間は早く感じられる、という感覚の狂いを利用する。

 常套手段で使われるのが、小説のクライマックスからラストへの流れ。たとえば推理ものだと、クライマックスで全ての謎解きがなされ、事件解決へと向かうわけで、当然読者の読む集中度は高くなる。
 そして、そのクライマックスの後に、後日談を付け加えるとする。
 このとき、「一週間後−−」と、時間経過の説明を、ぽんと提示する。

 単に通常の感覚で「一週間後」という文を読んだところで、こんなものに時間の重みを感じることなどできようはずがないが、多くの人が、このタイミングでの「一週間後」には感じることができるのではないだろうか。
 逆に、こういう場面で時間経過の捨てカットを使用すると、後味がぼけてしまうだろう。

 読者の充実度、疲労度などを計算に入れて、情報量や文章量を調節する技術。これが完璧に行えるようになれば、立派に中級レベルの小説家である。

4.夢・回想シーンの導入と終了

 回想シーンとは、現在から一旦過去へと時間が逆行し、現在に戻るという手法である。一方、夢のシーンとは、現実から虚構のシーンへと移り、現実へと帰ってくる手法。いずれも、本来あり得ない時間・空間の移動をするシーンである。

 回想シーンについては、単純に「昔こんなことがあった」「我に返った」などの符号で、時間旅行してしまうのも、小説の種類によっては全く問題ないのだが、幻想的な雰囲気を作り出す小説、あるいは現実と過去(や夢の世界)がごちゃごちゃになるような小説を書く場合、この境界をあいまいにする必要がある。
 私の下手な文章で大変申し訳ないのだが、例としてはこんな感じ。


 私は彼との待ち合わせ場所で、ぼんやりとベンチに腰掛け、すっかり枝のみとなった桜を見つめていた。
 背後から自分の名前を呼ばれたような気がした。そこには小さな男の子が、あいまいな笑顔を浮かべていた。
 そして、ごめんね、と一言だけいうと、すぐ背中を向け、駆けだしていってしまった。
 しばらくその背中を追っていたが、やがてその姿も見えなくなり、仕方なく、また桜へと視線を戻した。
 そしてまたぼうっと桜を見つめていると、しばらくしてようやく彼の声がした。
「よう、遅くなった」

 この短い文では効果が薄いのだが、この例でのポイントは、ふつうの出来事のように回想シーン(もしくは妄想シーン)を偽装してしまうことである。
 この手法はさじ加減が難しく、完全に現実と回想が同一のテンションで書かれてしまうと、わけのわからない小説になるし(それを狙うなら別だが)、かといってわかりやすい符号を入れてしまうと、幻想的な雰囲気がぶち壊しになってしまう。

[補足 2011.8.8]
 この技術については、朝吹真理子『きことわ』がわかりやすい形で使用している。ただし、あそこまでメカニカルに使うと眩惑的な雰囲気は損なわれるので、応用するならもう少し工夫する必要はある。


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