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3−4.情報の出し方による造形

[2010.4.27]文章の微修正
[2009.1.24]文章の若干の手直し


 小説は人間が読むものであるという前提である以上、必ず読者が存在する。この前提を思い返すことによって、小説は単なる平面上の印字だけで完結するのではなく、現実世界を巻き込んだ立体的なものへと進化する。つまり意図的に読者に働きかけ、利用するのである。

 さて、それではどうやって読者に働きかけるのか? それはひとえに、情報操作の手腕にかかっていると言ってもいい。
 情報の出し方、順番が異なるだけで、同じ場面が全く違って見えるのである。

1.人物の造形

 現実世界では、他人の思考を読みとれる人間など、ほとんどいない。たとえば街を歩いていて、たまたますれ違った人が深刻そうな顔をしていたら、「悩み事かな?」と思うことはある。が、案外「今晩何食おう」などという、つまんないことを考えていたりするものなのである。

 ところが小説では、しばしば他人の思考を読みとる人間が登場する。


 見ると、排ガスにまみれた道路の隅っこに、汚らしい風貌をした男が座っている。ホームレスだかなんだか、つまりは人生の落伍者なのだろう。最悪な人生の末路である。

 ふと、そいつと目があった。いや、こっちの視線に気づいた、という方が正しいかもしれない。
 そいつはにやりと下品な笑みをこぼし、言った。
「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」

 ホームレスの男は、主人公が「こいつの人生は最悪かつ末路だ」と思っているのを見透かしたかのように「落ちこぼれるってのも楽しいもんだぜ」というセリフを投げかけている。おそらく読者は、この男を「人の心を見透かす、鋭い人物」と思うだろう。しかし、なぜこの男が「鋭い人物」と思えるのだろうか?

 現実に、サラリーマン風の男がホームレスの男を見つめている場面に出くわし、ホームレスの男が「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」 と言ったとしたよう。それを見ている私達は、「あのホームレスの男は人の心を見透かす鋭い人物だ」とは思わないだろう。なぜなら、サラリーマン風の男が心の中で何を考えているかを知らないからである。正解がわからない以上、ホームレスの男が「心の中を見透かしたかどうか」を知る術がない。

 では、なぜ例文を読んだ時、私達はホームレスの男を「鋭い人物」と感じるのだろうか。答えは単純で、私達は正解を知っているからである。事前に主人公の心内描写を読んでいるからこそ、ホームレスの男が主人公の心中を見透かしたかどうかを知ることができる、という仕掛けである。

 さて、それでは応用である。


 見ると、排ガスにまみれた道路の隅っこに、汚らしい風貌をした男が座っている。ホームレスだかなんだか、つまりは人生の落伍者なのだろう。最悪な人生の末路である。

 ふと、そいつと目があった。いや、こっちの視線に気づいた、という方が正しいかもしれない。
 そいつはにやりと下品な笑みをこぼし、言った。
「ありがとう。オレの幸せを祈ってくれてんだな」

 これで、男は一転して「愚かな人物」に早変わりである。これも原理は同じで、なぜこの男が愚かに見えるかというと、主人公の心内描写を読者が事前に読んでいるからである。

 さて。それでは次の文だとどうだろうか?


 見ると、排ガスにまみれた道路の隅っこに、ぼさぼさ髪の男が座っている。何をしているのかはわからないが、ともかく年期の入った髪の乱れようである。
 そういえば、自分も髪を切ってなかった。明日にでも切りに行こう。

 ふと、男と目があった。いや、こっちの視線に気づいた、という方が正しいかもしれない。
 男はにやりと笑みをこぼし、言った。
「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」

 これはもう、小説の場面作りとしては破綻している感がある。男に対する描写とセリフが全く関連していない。現実には、こういうやりとりは数多くありえる。他者の心の中を正確に言い当てることは、そうそうできることではない。しかし、その現実を「ありのまま」に書いたからといって、リアリティが増すわけでも面白いわけでもない、という典型例である。

 さてさて。それでは視点を変えるとどうだろう?


 ふと、視線がこちらに向けられているのを知った。サラリーマン風の男だ。身なりはまあまあだが、なんとも平凡な印象を受ける面構え。ただ「真面目」だけを取り柄に生きて、そのまま朽ちていく手合いだろう。

 あまりにも哀れなので、オレはフレンドリーに笑いかけて言ってやる。
「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」

 三人称から、ホームレスの男を「私」にした一人称へと書き換えた文章。状況は最初の文章と全く同じなのに、こうして心内を描写してみると、途端に「鋭い人物」から「安っぽい人物」へと早変わりしてしまった。
 これは、「鋭い人物」や「偉大な人物」を描きたい場合、その心内を描写することは避けた方がいい、という典型例である。心の裡を読まれてしまうと、もうその人間は「神」足り得ないのである。

2.小説の雰囲気の造形

 さて。次に情報の出し方による、小説そのものの雰囲気の操作の仕方である。
 まずは下をご覧いただこう。


 車の排ガスと走行音の中、一人のサラリーマン風の青年が歩いている。いつものように会社から自宅に帰る途中で、彼にとって、この風景は見慣れたものであった。
 だが、彼が不意に立ち止まった。見慣れぬものを目にしたからである。
 汚れた服をまとい、全く手入れせずに何年も経過したような髪をした男だ。それが、道ばたに座り込んでいる。

 やがて青年の視線に気づいたのか、男は顔を上げ、にやりと笑みを返した。
「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」

 内容は先の場面と同じものだが、登場人物の心内を書かないようにしたもの。感情的な描写が少ない分、スマートな印象を与えるのが特徴。ハードボイルドな世界観を作り出したいなら、感情表現はなるべく少なくするといいだろう。
 また、お互いが一体どういう関係を持つのか、まだ読者にはわからないため、読者の期待感を高めるような書き口でもある。

 次は打って変わって、感情むき出しの例。


 青年は会社からの帰り道、いつものように、心の中で恨み言をぶつけながら歩いていた。

 こんな田舎だというのに、車だけはやけに通りやがる。うるさい上に排ガスは臭い。人の迷惑を考えて欲しいものだ。こっちは疲れてるってのに……

 と、なにやら見慣れぬものを目にし、青年は立ち止まった。男である。こんな悪臭と騒音の中、歩道の端っこに汚らしく座っている男がいたのである。

 全く今日は最悪な日だ。よりにもよってこの忌々しい道に、こんな人生の破綻者が死神のごとく座っているとは。どうせこいつはホームレスかなにかなんだろう。学校で落ちこぼれ、社会で落ちこぼれ、あげくにこんなクソ道路で座死する手合いなんだ。こんな奴は勝手にのたれ死んでしまえばいいんだが、なにも人の目に付くところなどに這い出てこなくてもいいのに。全く奴らときたら、単に社会のゴミになるだけでは飽きたらず、悪臭を放って我々健全な社会人の気分を不快にさせて喜んでやがるんだ。ちくしょうめ。

 そんな呪いのこもった視線を感じて、座っていた男はうんざりした。

 ここは天下の公道だ。広い道なんだし、別に通行の邪魔になってるわけでもなし、いいじゃないか別に。だいたいこういう制服を着た連中ときたら、自分が偉いわけでもないのに課長だ部長だと威張り散らして周囲に迷惑をかけるような奴らばかりだ。どうせ自分だってろくでもない人間のくせに、ちょっと自分より風体が悪いことを理由に、オレのような人間をゴミ扱いしやがる。オレがゴミなら、お前なんかコキ使われて死ぬだけの使い捨てカイロじゃないか。いずれはゴミになるに決まってるんだ。だが、そうするとちょっと気の毒だよな。オレのように最初からゴミになっておけば、じわじわとゴミになっていく恐怖からも解放されて幸せになれるのに。こいつにもオレの幸せを分けてやるチャンスはあってもいいんじゃないか。そうさ、チャンスぐらい平等にあったっていい。こんなくだらない人間にも、神は等しく生を与えてるんだからな。

 男はにやりと笑みをこぼし、言った。

「あんたも座ってみないか。落ちこぼれるってのも楽しいもんだせ」

 三人称多元描写を用いて、双方の感情が完全に見えるように書いている。青年と男の考え方のズレがはっきりと読者に伝わり、ギャグ小説の様相を呈してくる。今までとは全く異なる場面に見えそうだが、実際には前者も後者も同じ場面。異なるのは、情報の提示の仕方だけである。

 このように、同じ題材、同じ人物、同じ場面からでも、情報の出し方というひとつのエッセンスだけで、ここまで色合いを変えることができる。
 作品・人物に合った情報の出し方を使い分けることが肝要である。

3.黙説法

 話の前後でわかるから、あえて蛇足となる情報を出さない。そういった技術が、小説にはしばしば登場する。こういうものを黙説法と呼ぶ。
 多くの読者は馬鹿ではない。なんでもかんでも事細かに説明する必要はなく、経験から類推できる因果関係などは省略しても充分に意味を理解してもらえる。

 たとえば、「いじめられっ子がいじめっ子に出会う」→「いじめられっ子の頭にたんこぶができてる」という場面を見せられれば、たいがいの読者は「たんこぶができた理由はいじめっ子に殴られたからだ」と類推するだろう。なぜたんこぶができたか全くわからない、あるいは「突然どこからともなくロードローラーが降ってわいてきて、避けようとしたが、かすってしまった」などと突拍子もない類推をするような読者はあまりいない。

 こういった読者の経験や類推の能力を利用することで小説に深みを与えるのが、黙説法の主な効果である。

 単純な例ではこれ。


(1)
「妬くな妬くな。残念だが、彼女のハートはもうオレのものなのさ」
 公衆の面前でそんなセリフを吐きつつ、彼は後ろ手で別れを告げた。
「じゃあな。まっ、お前には後でオレ様のスイートでラヴラヴな自慢話を聞かせてやるぜ」
 そうして夜の雑踏へと消えていった彼だが、後に彼は彼女に振られてしまうことになる。

(2)
「妬くな妬くな。残念だが、彼女のハートはもうオレのものなのさ」
 公衆の面前でそんなセリフを吐きつつ、彼は後ろ手で別れを告げた。
「じゃあな。まっ、お前には後でオレ様のスイートでラヴラヴな自慢話を聞かせてやるぜ」
 そうして夜の雑踏へと消えていった彼だが、今のところ私は、スイートでラヴラヴな自慢話とやらを聞けずにいる。

(2)は「自慢話を聞けない」と書くことで、「振られただろう」ことを読者に予想させる書き方である。

 説明レベルでの意味内容は両者とも同じで、つまりは自信満々でアタックした男が振られた、というだけのものである。(1)はその意味内容を正確に書いているが、「男が女にアタックして振られる」という事象そのものはありきたりなので、面白味に欠ける。
 そこで(2)のように書くことで、冒険家が旅に出たっきり消息不明になってしまったような雰囲気が演出され、ある種のスケール感(消息不明や音信不通といった事象は、日常的にはあまり起きない。そのためスケールを感じる)や哀愁感を醸し出すことができる。また、「振られる」というありきたりの事象に「消息不明」という非日常っぽさをぶつけることで、その大げさ感が笑いを引き起こしたりもできるわけである。

 しかし、こういった一次的な効果よりも重要なのは、読者に意味内容を類推させることで、より積極的に「読ませる」方向に持って行ける、ということである。
「アタックした」→「振られた」とはっきり書いてしまえば、読者は全く頭を働かせる必要が無く、受け身的な読書になりがちである。これでは刺激が少なく、飽きてしまうだろう。
 そこで、わざと因果律に穴を開け、埋めさせるように持って行くことで、読者の関心を引きつける効果を加えるのである。ちょっとした「作者と読者の共同作業」的な演出により、より小説に親近感を持ってもらえる、といった効果も期待できる。


 なお、(2)を発展させて、さらに省略してしまうことも可能である。


(3)
「妬くな妬くな。残念だが、彼女のハートはもうオレのものなのさ」
 公衆の面前でそんなセリフを吐きつつ、彼は後ろ手で別れを告げた。
「じゃあな。まっ、お前には後でオレ様のスイートでラヴラヴな自慢話を聞かせてやるぜ」
 そうして彼は、夜の雑踏へと消えていった。

 結末を一切書いていないが、これだけでもなんとなく「振られそう」だとは推測できるだろう。それは、過剰なほどの自信を見せた言動と、「夜の雑踏へ『消えていった』」という不吉な言葉とのギャップや、「自慢話を聞かせてやる」と言いつつ、その自慢話が一切書かれていないことなどから類推される。
 ただし、ここまで省略すると「振られていない」可能性も充分考えられるので、読者がどう受け止めるかを制御しづらくなる。振られていてもいなくても、小説の本筋に関係ないならばそれでもいいが、どうしても振られたと認識してもらわないと話が混乱する、などの場合には、やりすぎないように気をつける必要がある。

 黙説法は簡単な割に効果の大きい技法であるが、同時に制御の難しい技法でもある。自分の小説を読むであろう読者の経験や知的レベルを想定し、どの程度省略しても大丈夫かを見極めて扱わなければならない。
 また、この技法は基本的に、読者の気になる部分をわざと書かない方法なので、やりすぎると嫌みが混ざるので注意。


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