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コラム「ダメ小説改善案メモ」

[2009.12.11]初稿


 この文章は、2009.12.9の雑記ノートに書いたものと、それに関連して掲示板に書いたものの転載である。
 文字通りの雑記メモだが、何かのヒントになることもあるかもしれないので、一応こちらに記録しておく。

雑記ノート

 ここ最近、ネット上の小説を読み漁って、たまには感想なども付けたりしていました。匿名で、ですが。
 なぜそんなことをしているかというと、つまらない作品のサンプルを集めて共通の問題を探すためで、最終的には解決法をマニュアル化できればいいなと思っております。

 今のところレポート化できるほどまとまっていませんが、いくつかわかってきたこともあるので、少しまとめておこうかと。

 ダメな作品に共通して言えるのは、場面効果を考えていない、ということです。どうでもいい会話やどうでもいい描写、あるいはどうでもいい設定の説明が延々と続く。
 映画で喩えればわかりやすいのですが、途中で眠くなる映画というのは、たいがい、無駄なシーンが大量に入っています。ストーリーにほとんど関係ないラブシーンや酒場でダンスしたりするシーンにイライラした覚えは、誰しもあるでしょう。「オレはアクション映画が観たいんだ! お前らの日常生活なんか観たくねえ! はやく殴り合えよ!」とか(笑) あのかったるさこそがダメ小説をダメにしている諸悪の根源なのです。

 ここで問題になるのは、なぜ、どうでもいいシーンは「どうでもいい」のか? ということです。どうでもいいシーンとそうでないシーンの差は何なのでしょう?
 これは端的に言えば、ストーリーの進行に寄与しているか否か、です。同じ陳腐なラブシーンでも、ストーリー上特に意味のない場合と、女が実はスパイで、男から情報を聞き出そうとしている、というストーリー進行がある場合では、観客の反応は全く変わります。つまり、最初から最後まで、ずっとストーリーが進行し続けるようにシーン構成を練ることが、「どうでもいい小説」脱却のカギだと言えるわけです。

 特に注意したいのは、冒頭の運び方。登場人物の紹介や舞台の紹介、主人公の日常生活を延々と描写したりするのは愚の骨頂と言えます。主人公の名前や職業や性格や、なんたら学園だとかなんとかワールドなどというのは後回し。なぜなら、どういう話なのかわからないのに、そんなものに読者は興味を持たないからです。読者が一番興味があるのは、これからどんな話が展開するのか。物語に引き込まれて、初めてその物語の周辺設定に興味が沸いてくるのです。だからとにかく冒頭は、ストーリーを進行させることを第一に考える。

 ストーリー進行を念頭に置いて書くようになるだけでも、相当マシな作品になるのではないかと思うのですが、とすると次に問題になるのは、ストーリーについてです。ストーリーそのものが客の興味を惹かなければ、いくらそれを進めてもダメということになる。
 これについてはまだうまく文章でまとめられる段階にないのですが、ひとつ言えるのは、かなり陳腐なストーリーでも大丈夫、むしろ単純で陳腐な方がマシなのではないかと考えています。
 というのは、つまらない作品の多くは、陳腐なストーリーを回避しようとして工夫した結果、「つまらない上に陳腐なストーリー」になってしまっている場合が多いのです。
「正義の勇者が悪の魔道士からクリスタルを奪還し、魔王復活を阻止する物語」など、ド直球の王道ストーリーを徹底している方が、まだ読める。
 アクション映画に「正義とは、悪とは何か」などと変な哲学的テーマを持ち出すと、途端につまらなくなることがあるのと同じで、変にひねって脇道をこそこそ歩くよりは、堂々と王道の真ん中を歩いた方がマシということは多々あります。若葉マークはいらん知恵を絞って脇道に入って事故ったり迷ったりするより、わかりやすく広々とした安全な道路を走った方がマシ、というのと同じことなのかもしれません。余談ですが、若葉マークの頃って、なぜかかえって危険な道を通りたがりますよね。スレ違えない細道とか。慣れてくると、むしろそういう道を避けるようになる。


 ……と、この辺までまとめたのですが、問題は、以上の点を押さえて書けば、本当にそこそこの小説が書けるのか? ということです。私が書く分には役に立ちそうだと思うのですが、他人の役に立つかどうかがイマイチわからん。
 ストーリーの組み立て方や、細部の書き方などもフォローしないとダメのような気もしますし、しかしこの辺は書き手の個性に関わってくる部分なので、一般化しにくいところなんですよね。プロの作品を読んで盗んでこいと言うだけなら簡単なのですが(笑)

 で、始めの話に戻るわけですが、実際アドバイスして良くなりそうなのか試すために、たまに感想を書いて様子を見ているのですが、なんだか手応えがないんですよね。言葉ではわかったようなことを書いているのですが、本当にわかっているのかどうか。単に感想をもらって喜んでいるだけなんじゃないかと思えてならない(笑)
 まあ実際、私も含めてですが、物書きなんてやっている連中は、人の言うことを素直に聞くような精神構造をしてないんですよね。だから結局のところ、各々勝手にやればいいと思うし、それしかないとも思うのですが。


[2009.12.15 追記]
 それにしても、こういった雑記で読めないほどひどい文章にお目にかかることは少ないのに、なぜ小説は読むに耐えないものが溢れかえっているのでしょう。そこに何かあるような気もする。

掲示板投稿(抜粋・微修正)

 文章を読ませ続けるには、予感というか期待というか、そういったもので常に読者を引っ張り続ける必要があるのですが、その牽引力を担うのは、もっぱら物語なのです。
『水戸黄門』がどんなにベタでワンパターンでもやっていけるのは、「こいつが今回の悪役か。今度はどんな悪巧みなんだ?」とか「今回はどこで印籠を出すんだ。まだか、まだなのか!?」などと、それなりに続きが気になる要素をちらつかせているからだと言えます。
 素人ほど、こういう力を使いたがらずに、平板なストーリー展開にしてしまうんですよね。

 ここまではまあ、それほど難しい話ではないと思うのですが、問題は、「じゃあ、物語の力に頼ろう」とした時、頼っているつもりが全然牽引力になっていないことがある、ということ。
 要するに物語の作りに問題があるのに気付いていないタイプですが、これがなかなか難問です。自覚できないんじゃ直しようがないし、ダメだと気付いても、どうすれば良くなるのかわからないのでは同じこと。
 この辺は今のところ「センス」の領域なのですが、それをどうにかしたいというのが、今考えていることです。
 解がない問題のような気もしてるんですけどね。

補足メモ

 物語を軽視して、ひたすらつまらない作品を書いてしまうのは、自然主義文学に見られる欠陥でもある。もしかすると、その伝統をひきずっているが故に、私達の書く小説はつまらなくなりがちなのかもしれない。


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