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コラム5 『ドン・キホーテ』が重要な理由

[2015.11.8]初稿


 『ドン・キホーテ』は、大人気を博していろんな言語に翻訳された作品ではあったものの、最初から文学上で重要視されていたわけではない。この作品の第一部が出版されたのは1605年だったが、この作品が重要視されるようになったのは1970年代頃からのことである。

 現在、そもそもこの作品をちゃんと読んでいる人はほとんどおらず、せいぜい演劇かなにかで風車に突撃するエピソードを観たことがあるとか、その程度だろう。特に第二部の内容を知っている人は稀である。

 この作品はもともと、物語に潜む狂気を批判しようとして書かれたものだった。当時のヨーロッパは大航海時代で、スペインは騎士物語の英雄気取りでアメリカ大陸を侵略しており、国民もそれに熱狂していた。それを批判し、諫めるために書かれたのが『ドン・キホーテ』だったわけである。
 この意図は、現代文学の知識を持って冒頭を読めばすぐわかることで、冒頭では作者が登場して、これから作品を書こうとしているのだが、騎士物語には必ず必要な序文に捧げるソネットが思いつかないとか、ものすごくメタ・フィクションなことを悩んでいたりする。で、友人に相談したら「どうせ騎士物語なんてくだらないのだから、他のやつの真似すりゃいいじゃん」といった酷いアドバイスをするのである。そういうわけで本編でも、騎士物語のパターンを徹底的に模倣しつつ、物語の行為を現実に持ち込んだら、それがいかに愚かで迷惑かということを延々と綴っている。

 しかしこの作品は、騎士物語を模倣して書かれたが故に、『騎士物語』として面白く読める、という性質も持っていた。そういうわけで当時の人は、騎士物語に熱狂する者への批判的なメッセージを受け取らずに、単にキホーテを滑稽で愛すべきキャラとしてみなし、熱狂したのである。熱狂を諫めようとした作品が、熱狂的に愛されて売れまくるという、作者としては予想外の事態が起きてしまったのだ。

 これはマズイと思ったセルバンテスは、第二部を執筆した。第二部の最後では、死ぬ直前にキホーテは狂気から目覚め、今まで迷惑を掛けたことを謝罪する、という展開になっている。それくらいはっきり書かないと自分の作為を理解してもらえないと思ったのだろう。
 なお、文学上興味深いのは、この第二部が、第一部の模倣になっている、という点である。第一部では従来の騎士物語を模倣して書かれていたのが、第二部の設定では、第一部が売れまくった後の世界ということになっていて、登場人物が第一部の影響を受け、それを真似しようとするのである。この手法は現代に読んでもまだ斬新かつ衝撃的で、文学では第一部よりも第二部の方を重視することが多い。

 この作品が重要視され始めたのが1970年代だったというのは、必然的な出来事だったと言える。というのは、第一次、第二次世界大戦やマルクス主義(やサルトルの「歴史参加」)を経て、人々が物語の危険性に気付き始めたのがこの時代だったからである。結局人間は、実際に何度も痛い目を見ないとわからない生き物だと言える。

 第一次世界大戦時、若者はこぞって戦争に行きたがったのだが、それはまさしく騎士物語に影響を受け、「俺も一旗揚げて英雄になるぜ」という、お花畑な妄想を抱いたためだった。現実には、この戦争は産業革命の影響を受け、効率よく大量に殺傷可能な兵器がたくさん用いられ、地獄の様相を示したわけだが。

 第一次世界大戦でお花畑な妄想を抱いていた人の大半は、現代戦の地獄を目の当たりにして、もう戦争なんかこりごりだと思うようになった。しかし、戦争で実際に栄誉に浴した人物もいたわけで、そういう人にとっては、未だに戦争は騎士物語の実現の場として映っていた。アドルフ・ヒトラーもその一人である(ただし彼は、二度も鉄十字勲章を受勲したわりには兵長止まりで、結局は戦争の才能も無かったとも言えるのだが)。
 そのヒトラーは『わが闘争』を口述筆記して出版し、宣伝映画を制作して人々を扇動した。ヒトラーに限らず、20世紀は本や映画がプロパガンダに利用され、それによって人類は多大なる損害を被った時代だった。

 文学者達は、今だからこそ偉そうに『ドン・キホーテ』を語るが、結局文学は、二度の大戦を止められなかったどころか、むしろ文学が戦争を煽り、人々を熱狂させたのである。

『ドン・キホーテ』は、メタ・フィクションの技法を導入し、現代の小説の基礎を築いた作品という点(技術的な側面)でも重要なのだが、同時に、創作の役割や危険性、それに携わる者の責任について考えさせるという点でも重要な作品だと言える。

 特に考えさせられるのは、セルバンテスは結局、狂気を戒める役割を果たせていないということである。戦後の文学者なんかに評価されたって、それでは遅すぎて意味がない。かといって、もっとわかりやすく、暗くて憂鬱で説教臭い小説を書いたら、そんなものは売れなくて、やはりメッセージは届かなかっただろう。

[2017.4.16 追記]
 先見の明を示した書物に対して「この本(著者)は未来を予見した」などと評価することがあるが、悲惨な未来を予見した書物の場合、その予見が当たったということは、その本が人々への警鐘という役割を果たせなかったということであり、何の役にも立たなかったということである。


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