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コラム6 視点と私

[2016.6.19]初稿


 私は小説を書く際に、いわゆる人称や視点の問題で悩んだことはない。もちろん、あるシーンを書くのに、どの視点で書くのが一番効果的なのかは常に考えるべきことなので、そういう意味では常に悩んでいるとも言えるのだが、「三人称(一人称)小説はどう書かなければならないのか」とか「どう書いてはいけないのか」とか、そういう形で悩んだことは一度もない。
 私にとって視点の問題とは「よりよい書き方はないか」という問題であって、ルールや制限の問題ではないのである。
 にも関わらず、ルールや制限としての視点の問題は、私にとって根深い関係がある。というのは、私の書いた小説に対して、初めて技術的な指摘を受けたのが、視点の問題だったからである。

 私は高校の頃、学級新聞の裏に小説を連載していた。私が文章を書いて友達がそれに挿絵を描き、要するにライトノベルの形式でやっていたわけである。
 その内容は教育的でもなんでもなく、むしろ主要人物の一人が麻薬常習者だったりして、おそらく今の時代に同じ小説を高校で配布したら、教師か学校からクレームが付くと思われるのだが、ともかく当時は、内容に関してのクレームは一件もなかった。
 唯一、担任教師から指摘を受けたのが、視点の問題だったわけである。
 問題の文章は以下の通り。

(Aは転校生で、昼休みに自分の机に座って学校の見取り図を見ている。そこに別のクラスから女生徒が一人やってきて、「転校生を見物に来た」とか言う。Aは彼女を無視して見取り図に目を落としたままでいる)

 Aは左腕の時計を見た。まだ予鈴には時間がある。
「なんならわたしが、案内したげよっか?」
 その声に、初めてAは彼女を見た。
 どうやら、普通の女生徒のようだった。特徴をあげるなら、髪がショートカット……ということか。活発そうな印象を受けたので、運動部所属だろうとAは思った。

 この文章のどこが問題なのかというと、「どうやら、普通の女生徒のようだった。特徴をあげるなら、髪がショートカット……ということか」の部分が、Aの感想なのか、それとも話者の感想なのかが判然としないからダメだ、ということである。

 こんなのは珍しくもない表現方法だし、読み手が混乱することもないだろう。前後の文脈から、この文の主語がAなのはだいたいわかるし、仮に誤読されても読むのに支障はない。むしろ、わざと主語を省略し、誰の感想とでも解釈できるところがこの技法のミソとなる。読者自身が女生徒を見たかのようにも錯覚できるので、より作品に没入しやすくなるわけである。はっきり言って、この書き方がダメだという指摘は馬鹿げている。

 この件は私にとっては衝撃的だった。自分の作品に指摘を受けたことに対してではなく、こんな馬鹿げた「作法」が存在することが衝撃的だったのである。なぜ小説の表現方法を狭めるような、くだらない「作法」が存在するのかと。
 三人称に一人称的な表現を使っては「ならない」などというのは、まるっきりナンセンスだと、当時の私は思ったし、今でもそう思っている。なぜなら、現にそういう表現技法を使っている小説はたくさんあるし、「名作」とされる作品にもあるからである。もちろん、読みにくいわけでもない。
 なのになぜか、視点の混在を避けるという謎の「作法」が世間には流布しているのである。丸っきり馬鹿げているとしか言いようがない。きっとこんな「作法」を信じている人は、ろくに小説を読んだことがないのだろう。

 この件は私が小説の技術について興味を抱くきっかけになり、日本文学を専攻する遠因のひとつになったとも言えるので、そういう意味では重要な出来事だった。
 ただ、視点の問題との出会いそのものについては、この時点では特に重要でもなんでもなく、単に変な「作法」を主張する人がいるんだな、と思っただけだった。
 視点の問題が真に私にとって重みを増してきたのは、ネットで小説の技術に関する議論を見かけるようになってからだった。

 当初、私が「3−1.人称(視点)について」を書いた際、一番重点を置いたのは、「いかにして視点を自由に操るか」という点だった。つまり、一人称小説にいかにして三人称視点を持ち込むかとか、そういうヒントになるようなものを書こうとしていたのである。
 私が本当に重視していたのは「3−4.情報の出し方による造形」のような、視点を変えることによる効果とか、そうした技術の方で、3−1は、あの手の技術を紹介する上での前説くらいにしか考えていなかった。小説を書く際に「視点で悩む」というのは、3−4のようなことで悩むものだというのが私の認識だったからである。

 しかしその後、3−1が他のページに比べてやたらと多くアクセスされていることに気付き、ネットでは視点に関して、どういう疑問や議論がされているのだろうと気になって、調べてみることにした。

 まず驚いたのは、視点(人称)のルールがわからないという人がものすごく多いということだった。
 そして、より問題なのが、例の「作法」が幅を効かせていることだった。私は「いかにして視点を自由に混ぜて操るか」のヒントを書こうとしているのに、ネットでは逆に「視点は混ぜるな」という言説が支配しているのである。

 さらに問題だったのは、私のページが「視点は混ぜるな」という意見を支持するものとして紹介されていたことだった。
 どう読めばそう受け取れるのか解らなかったが、それではマズイので、私は視点の混在についての項目を加筆し、さらに、視点が何なのかが解らないという人のために、話者についての項目を追加した。その後も度々加筆修正を繰り返している。

 私の目標は、ネットで小説を書いている人が、3−1レベルの問題で視点について悩まないようになることである。本来、視点の問題とは、3−4で書いたように、視点によって作品の印象が変わる、変えられるということであって、いかにして効果的に視点を選ぶか、操るかが焦点となるはずなのである。分類については、ざっと知っておくだけでいい。
 しかし、その目標に向かって3−1を加筆すればするほど、視点の分類の問題が重要かつ難しい印象を与えるという逆効果も生んでいるらしい。


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