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緑が丘

涼格朱銀  

 ここに来ると、普段は私達を縛り付けている時間や空間といった概念が、ここでは働いていないように感じる。空はどこまでも青く、緑の丘はどこまでも延びる。永遠に広がり、永遠に続く。
 あの日も丘は同じ姿だった。心地よい風に揺らめく丘は、燃え尽きることのなく輝き続ける一面の炎に見えた。そして、握りしめた父親の手のひらからも、そんな永遠の命の熱を感じたものだった。
 丘に来る時は、いつも父親と一緒だった。特に決まった時間に来るわけでもなく、日にちが決まっていたわけでもない。それでもこの丘に来る時だけは、父親が差し出した手を握った瞬間に分かったものだった。そうして父親と一緒にやって来ては、二人で丘の上に立って、いつまでも景色を眺め続けた。言葉を交わすことはなく、ボール投げなどして遊ぶこともない。ただじっと丘に立ち、靴底から伝わる草と大地や、流れ続ける風、太陽の熱の感触を味わうのだった。
 丘はいつでも静かに私達を迎えてくれた。無限に続く世界は包容力に溢れ、穏やかな風と、青い空と、緑の丘と、尽き果てることのない力強さと優しさを湛えて、私達を祝福してくれた。
 時には丘のあまりの大きさに、私達を飲み込んでしまうのではないかという錯覚を覚えることもあった。どこまでも続く緑と青の中で自分の位置を見失ってしまったような感覚。どちらが上でどちらが下なのか、本当に自分が立っているのは大地の方なのか、いつも当たり前に感じている感覚が本当に正しいのか、次々と疑念が巻き起こってくる。そのうち自分が立っているかどうかもわからなくなり、ゆっくりと緑の炎の中に沈み込んでいくような恐怖に襲われる。そんなときに思い出すのが、握っている父親の手の感触だった。それを頼りに私は自分を引き戻し、ほっと息を吐くのだった。
 しばらくすると父親は私の手を引き、それを合図に家路へと向かう。丘に行って帰るだけの、なんてことのない散歩のようなものだったが、私にはそれがとても楽しく、なんとなく神聖な儀式のような、敬虔な気持ちを持っていたものだった。
 だから、風のそよぎや草のささやきだけが許されると思っていたその世界に、別の音が響くことがあるなど、私はそれまで考えたこともなかったのだ。
「この丘は、とても優しい」
 私は驚きに身を震わせた。理由のない畏怖に頭は混乱し、全身から汗が噴き出す。身体も頭も全く働かず、何が起きたのか、考えることもできない。
 ようやく、それが父親の声であることに気付き、私はゆっくりと父親を見上げた。
 父親は、静かに地平線の彼方へ視線をやっていた。何事もなかったかのような、いつもの光景、いつもの日常。今の声は錯覚だったのではないかと思えるほど、何事もない姿。
 しかし、しばらくして、父親はゆっくりと口を開いた。声は確かに父親から発せられたものだったのだ。
「ここにいれば完全な円環の中で生きることができる。自然のサイクルにくるまれて、平穏で幸福な日々を送ることができる」
 私は恐ろしくなって、父親の手をふりほどこうとした。大変な事が起きてしまったのではないか。空に暗雲が立ちこめ、灰色の霧が漂い、丘を閉ざしていく。光を失った世界は闇に染まり、どこまでも続いていた世界は、二度と届くことはない。
 あれほど偉大に、永遠に感じられたものは、本当はこんなにも脆く壊れやすいものであったのだ。私達を祝福してくれる空。私達を守ってくれる大地。何者にも動じることなく、何者にも侵されることなく、ともすれば私達を呑み込んでしまうんじゃないかと思われていたものは、たったこれだけの不協和音によって破壊されてしまうほどのか細いものだったのだ。
「心配することはない」
 握り返してきた父親の手の感触に、私は我に返った。雲も霧もない、いつもの丘。
「丘はそんなに脆くない。私一人がどうにかできるようなものじゃないさ」
 見上げた父親は笑っていた。その笑顔は、なんとなく寂しさを湛えているようでもあった。
 父親はしゃがみ込んで私の背の丈に合わせると、改めて私を正面から見つめた。
「丘はどこまでも続いていく。なくなったりなんかしない。そして、どんな時でも優しく迎えてくれる。怖がることはないんだよ。いいね?」
 しばらく父親の顔をじっと見つめて──私は頷いた。そうすると父親も頷いて、それから私を抱きしめてくれたのだった。
 父親が何を言いたいのか、本当のところはよく分からなかった。丘がどこまでも続いていて、どこまでも優しいことは、ずっと分かっていたいたことだった。それをわざわざ言葉にする必要があったのだろうか? むしろその「言葉」こそが、丘の永遠を引き裂き、壊してしまいそうになったのではないか。
 だけと、もう一度父親の言ったことを思い出して、考えて──やっぱり全然わからなかったけれど──私は決心をした。父親がいつものように私の手を引っ張って「帰り」の合図をした時、私は頷いた後、そっと父親の手を離したのだった。
 そして私は──息子と並んで丘を後にする。
 丘はずっとあるだろう。今までそうであったように、これからも祝福を与え続けてくれるだろう。だけど、私は丘に別れを告げる。
 父親があの日、どうして丘を去ったのかは知らない。これからも知ることはないだろう。
 明日の朝、目が醒めた時、息子はどうするだろうか。私のように丘へ駆け出し、父親の姿を探し求めるだろうか。
 だが、そこに彼が居ないことは分かっていた。あるのはいつもの丘と、風と、日差しと、思い出だけだ。


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